浮世をば 今こそ渡れ ~備中高松城の戦い~
これまでのあらすじ。
毛利境目七城の要であった備中高松城。高いところから見下ろしたくなる地勢。
1.備中高松城
城の図がこんなのしかない。分からないのかな実際。三の丸・二の丸・本丸が一直線に連なる連郭式で、周りを家臣の屋敷で囲い込むように配置していたのだろうか。
三の丸。綺麗に公園化されている。奥に見える蔵のようなものは資料館。
二の丸と本丸の間に蓮池という地名が残っているらしい。復元された沼に蓮が植えられている。
「浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して」
天正10年6月4日。城兵の命を助けることを条件に、舟で城の外に漕ぎ出て一指舞った後に自刃。まさに武将の鑑たる見事な最期であった。
三の丸から秀吉本陣のあった石井山を見上げる。山中、ちょっと開けて白い旗の見えるところがそう。
近くの民家の庭先に残る銅塚。
自刃の地推定地にも立派な供養塔が。
ごうやぶ。家臣たちが切腹した清水宗治の後を追い、互いを刺し違えて殉死したところ。家臣にも慕われていたのだろう。
舟橋。舟と舟を繋いで橋として使っていたという。今の川幅なら飛び越えられてしまいそうだけども。
2.蛙ヶ鼻築堤跡
備中高松城を水攻めするために築かれた土塁の一部が残る。背後の山には黒田の本陣があった。高さの表示板を見ると、当時の地表面は今より高いようだ。湿地を埋め立てたなら今の方が高くなりそうなものだが…。
土塁幅も結構ある。土塁内部の様子も複製展示されている。
3.石井山 秀吉本陣
秀吉の本陣跡の石井山。持宝院跡とある。麓の寺の名前と同じだ。当時は山の上にあったのかな。お堂か何かを利用したのかも。写真の幟がさっき高松城から見えていたやつ。谷間に馬…。
本陣から高松城。目と鼻の先。城内の様子もよく見えただろう。
少し離れたところに清水宗治の首塚跡。後に現在の位置に移された。
太閤岩。別に座ったわけではなく、作戦行動の目標物に使われたのではないかという推測。まあ、眉唾だな。しかし呆れたことに何にでも小銭を供えたい輩がいるものである。
4.加藤清正陣・取水口推定地
城の北西にある生石神社は加藤清正の陣があったとされる。
そのすぐ南に取水地推定地。この辺と言い伝えられている程度らしいが。築堤の位置と各武将の陣地、水没地域を考えるとこのあたりが妥当なのだろう。
蛙ヶ鼻築堤跡~石井山~備中高松城→ルートA
生石神社→ルートB
足守駅から徒歩5分
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5.日差山 小早川隆景陣
隆景の陣のあった日差山にももちろん登ってきた。元春の庚申山は時間切れで行けなかったけど。
日差寺へ。寺なのに鳥居???巨岩がたくさんある聖地感。磐座か。この後ろから登れる。
すぐに開けたところに出る。日差山の表示が出ているがここが日差山の山頂なのだろうか。ただしここからは高松城見えない気がする。
先を進むと江田山の山頂へ。この後仕手倉山の山頂にも行ってみたが、木々に覆われているし逆方向なので割愛。いくつかの山を繋ぐ尾根なのかもなあ。
さらに進むと道を狭めるように落ちている岩と矢穴っぽい穴のあいた岩が。これは近いな?そしてついに
影で見にくいが明らかに人の手で積んだ石積み。虎口を石で固めている。実際登ろうとすると結構な高低差で大変。もしかしたら梯子か橋でもかけてたのかも。
鷹ノ巣城跡、とある。まあ名称はどうでもよろしい。他でも使われたのかもなあ。
ここからであれば戦場が一望できる。写真奥やや右寄りにある赤い鳥居のあたり。こんなに近くにいるのに、水没し追い詰められていく高松城を見ていることしかできないなんて、さぞ歯がゆかったことだろう。そのまま忠臣清水宗治を失ってしまった隆景の心痛はいかばかりか。かつてあっただろう眼下の光景に思いを馳せながらしばし立ち尽くしていた。
日差山
日幡城から*1徒歩40分
*1:七城を巡る行程の途中で行ったので