つわものどものゆめの跡

城郭に魅せられた女の訪城記録と妄想。

滋賀県教育委員会主催の「戦国の近江」シンポジウムに行ってきました。

興味を引かれたところと考えたことのまとめ。

テーマ1「戦国の甲賀甲賀衆・城・忍」

テーマ2「佐々木六角氏と戦国の近江」

忍者はいた?→創作のような不思議な術を使ういわゆる忍者は確認できず。

       中国の古典から登場人物の名前を変えて作られたストーリー

       情報収集や物見のような忍は確認できる。

まあそうでしょうね。^^

甲賀という地域の特殊性

六角征伐・・・応仁・文明の乱の後、押領した寺社公家領を返還しなかったため、幕府が2度に渡り六角氏を征伐しようとした。

→六角氏は二度とも甲賀に退避、攻めきれず終了。

一次は将軍義尚が病死して撤収。そもそも本気で攻め滅ぼす気はなく、他大名に対する見せしめと公家に対する善処してますというポーズ。

二次は将軍義材の示威の意味もあり、本気だったが、甲賀衆が将軍に嘆願し、引上げ。

 織田による六角侵攻・・・義昭擁立を契機に始まった2度に渡る戦い

→六角氏は甲賀へ退避。

ことあるごとに甲賀に退避して敵がいなくなれば戻ってくる。ただしこういった動きは六角氏だけでなく、細川氏や義材にもみられる。

甲賀郡中惣

甲賀「半手」*1

いわゆる大名はおらず、小領主が乱立する状態。「掟書」を制定。紛争は合議で意思決定。外敵が現れたときは一致団結して排除にあたる。

 城館

  • 狭い範囲*2に200ヶ所も。
  • 一辺約50mの方形単郭プラン。
  • 四方を高く幅広い土塁で囲む。
  • 集落の背後の丘陵を利用して作られた。

 不思議だなあ。方形居館ではないのかな。逃げてきた大名を匿うためだけの簡易城みたいなものだったりして。是非とも現地で確認したい。

 

六角氏*3について

ちょっと攻めるとすぐ逃げるので弱小のイメージがあるが、実際は将軍に次ぐ実質NO.2。管領の代理を務めたことも(定頼)。

普段は領地の近江にいて、何かあると京都に呼び出される。

近江は一揆が盛んだったので一揆構造*4だったのではと言われるが、当主の一存で万単位の兵を動かすことができるほどの権力はあった。

 

六角氏にはその力があるのに甲賀を攻めて支配下に置くことはしないで、自立を認めていたのはいざという時の退避場所を失わないだめだったのかなあ。信長様はその発想がないから攻めとっちゃう。長政様の最初の奥さんって六角承禎の娘だったかしらん。んで賢政って名前だったんだよね。

 

観音寺城

戦のための空間ではなく生活空間だった。なので籠城はしない。

六角氏は観音寺城を出たあと決まって三雲城(甲賀の入口)で戦い、駄目そうだったら甲賀へ逃げる。

 \\\西方の城の特色\\\

  • 聖空間を取り込むことで領民支配(ex.置塩城)
  • 城下町を作らず山の上に住んでいた(ex.三好氏)

あれ?これって信長様が安土城でやりたかったことでは。信長様は岐阜城安土城との間で城の作り方が変わっている。近江の城の作り方を吸収しているからだ。総見寺は城主の生活空間を通らずに行くことが出来たよなあ。ボンサン石を拝ませてたのもその一環だったりするのかなあ。

そして観音寺城は城の石垣なのか寺の石垣なのかを議論しているところとのことだったが、それって区別する必要あるのだろうか。寺を取り込んでいたのならばそれはもう城の一部でいいのでは。後世追加された石垣ってこと?

 

楽しい3時間半でした。

第2回も楽しみ。

 

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*1:国境のどちらの勢力にも年貢を払い、独立を認められた地域。

*2:国境付近。

*3:高頼-氏綱(夭折)-定頼(美少年)-義賢(承禎)-義弼

*4:明確な主従関係ではなく大名と家臣たちが横並び