東西の緊張を感じさせる黒い城【松江城】
プレムアム宿泊券の期限が1月末までということもあり、冬はあまり天候が良くないと知りながら、逆に空いていて見やすいのではという下心で国宝再指定*1に沸く松江城に行ってきた。
松江城は木造現存天守を有する連郭式平山城。石垣と堀で防備を固めた近世城郭。
関ヶ原の合戦にて東軍で功を立てた堀尾忠氏が出雲・隠岐を拝領、月山富田城では時代に合わぬということで松江を選定するも忠氏は早逝してしまう。父の吉晴が孫の忠晴を助けて作り上げたのが松江城とその城下町とのこと。
1.内堀周り
まずは外周から。宍道湖大橋から歩いてきて、まず見えてくる幅の広い堀。なかなかの高い石垣は二之丸の石垣、それと南櫓、中櫓・・・。これぞ城郭といった風景でテンション上がる。手前の県庁は三之丸跡。
大手をやり過ごし、遊覧船乗り場の方へ。大手門の石垣が見える。櫓門で伸びる石垣上には土塀が続いていた模様。また、城下町側にも船着き場が見られる。
しばらく進んで北惣門橋。家老屋敷と二之丸をつなぐ橋である。正面に脇虎口ノ門という櫓門があったようで、桝形のように屈曲して入っていく形になっている。虎口前に船着き場もあり、船でもアクセス可能。
向かいはかつて家老屋敷だった。今は松江歴史館になっている。展示も工夫がしてあって面白かったが、庭園を眺めながら職人お手製の和菓子とお抹茶を楽しめる喫茶コーナーや無料休憩所なんかもあるスバラシイ施設。大変お世話になりましたwあとトイレが綺麗。
北惣門橋の先、堀は二手に分岐する。塩見縄手方面を結ぶ宇賀橋があり、左手へ二之丸線へ沿う流れと、右手へ城下町を流れ中海へと注ぎ込む流れ。
堀は緩やかに蛇行している。道を挟んで明々庵のある赤山へ行ってみた。ブラタモリ*2でも紹介されていたが、かつて松江城天守のある亀田山と地続きの山を、築城時に切り崩し掘り割られ、内堀となった。大規模工事が施された。削った土は城下町の埋め立てに使われた。
塩見縄手は武家屋敷が並んでいた。現在もその面影が残っている。塩見縄手の名前の元になった塩見家が公開されている。
またこの並びには小泉八雲旧居があり、こちらも内部を見学できる。お隣の小泉八雲記念館は工事中。
八雲記念館のあたりが内堀の北端。そのまま南西方向へ進む。堀の形が急に直線になるのはバス停やトイレのあるあたりは、それらを作る時に埋め立てられたんだろうな。元々は道に沿ってカーブしていたはず。
外堀方面へ分岐する新橋を渡ると城の搦手にあたる稲荷橋がある。
----ちょっと寄り道…
ここから入り右手側に進み、坂を上がると北之丸という主郭群と離れた曲輪が一つ。現在は護国神社になっており、あまりの雰囲気にうろうろも出来なかったが、何があったのだろう。大勝利は祈願しなかったけれども。
左手に進み、井戸らしきものがあるところを曲がり、少し上がると城山稲荷神社がある。元々若宮八幡宮だったのを松平時代に稲荷神社と合祀したとのこと。いわゆる城内の聖空間にあたる部分で、城主の生活空間を通らずに町人が参詣出来るルートが稲荷橋から搦手を通るこの道なのだろう。
境内には小泉八雲お気に入りの石狐と、たくさんの狐さんたちがいる。明治時代までは数千体あったとか。
稲荷橋まで戻って、さらに南下すると亀田橋が。この先は民家が立ちならんでいるので堀沿い歩きは無理だった。ブラタモリでもやってた気がするが民家側にも船着き場がある。
県庁と図書館のある地を結ぶ橋。図書館側も三之丸の一部で御花畠だったとのこと。ここちょこっと飛び出してるの何か意味があるのかな。水の流れを調整するとか?
この先は外堀へつながりやはり中海に流れ込むようである。これで一周。2.5kmくらい。
2.三之丸
三之丸跡は現在県庁になっている。江戸時代には藩主の館と政庁があったところ。松江城の藩主は堀尾氏→京極氏→松平氏と移り変わっていく。
この軍扇は天守内で見られるが、原物かしら。大阪冬の陣で初陣を飾った直政公の戦ぶりに感心した真田幸村が投げ与えたものとされている。徳川のイメージアップキャンペーン・・・?
この三之丸と主郭部を結ぶ橋、千鳥橋は別名御廊下橋ともいい、例によって屋根のついた橋。お殿様クラスしか通れないやつだろうな。石垣に穴が残っているので、ずっと土塀が続いていたと思われる。外からは見えないようにね。
松平二代藩主までは二之丸に御殿があった、とのことなので、彦根城のように時代に合わせて御殿を下に下ろしていったのだろう。堀尾時代にはもしかしたら本丸に?
石段を上がったところに二之丸への虎口がある。南口門は簡易的な冠木門になっているが、あと二つ礎石が残っているな。左に御月見櫓跡、右に復元された南櫓なので、屋根がふたつの櫓の間にかかる感じなのかなあと。
3.外曲輪(馬溜)~大手門
さて、正式な登城路から中に入ることにする。
大手口前に堀尾吉晴公の像。何故か城に向かって突撃!のポーズである。あなたもか。入ってすぐのスペースは外曲輪にあたる馬溜になる。なんと正面の門は木戸門だったらしい。そんな装備で大丈夫か。
馬溜は正方形の広い空間になっている。馬出と同じ機能で、出撃の起点であり、防御の役割もあった。相当数の人数が収容できそう。ここまで引き込んで高い石垣の上から攻撃するのかもしれないな。
石組の水路と2か所の井戸跡がある。
桝形になっていて曲がって入る大手門の方は立派な櫓門。長さ14.5m幅6.4mの大きな門でしゃちほこもついていたらしい。発掘調査では礎石と雨落とし溝が見つかっている。資料見つかるといいですな。
櫓に上がる階段がついている。
4.二之丸下ノ段~中曲輪
大手門の先は二之丸下ノ段となる。米蔵がたくさん立ち並んでいた。籠城に対する備えも万全。
大手から二之丸下ノ段に進み突き当りに脇虎口ノ門跡。ここも櫓門があったようで礎石が残っている。この礎石、やたら綺麗な形してるな…。対岸は元家老屋敷、今歴史館。
二之丸下ノ段から中曲輪の石垣を見る。折れをつけながら長い範囲に積まれているが、途中で積み方が変わっている。というか石自体が違うのかしら。基本打込接だけど、一部野面も混じっているようだ。真ん中あたり、隙間が多めでガチャガチャしている。角も算木になりきれていない。
この石垣よく見ると刻印があちこちにある。マークが違うところを見ると、複数で担当したのかな。
大手門から二之丸下ノ段に行かず、左に折れると本丸方面への石段がある。
中曲輪。何があったのかは不明だが、二之丸下ノ段を攻撃するには最適。
中曲輪から本丸にかけても段状に石垣がある。ちょっと横目地が通ってて布積っぽい。
5.馬洗池~北ノ門
馬洗池。名前の通り馬を洗った池。この池の南にぎりぎり井戸、ぎりぎり門があったらしい。築城時に発見された人間の頭骨(ぎりぎり)に似た井戸ということでぎりぎり井戸、近くにあったからぎりぎり門と名付けたらしい。ちょっと意味が?
馬洗池を横目に本丸方面へ。この向かって右側の石垣の中央部分に隅石のような石垣の角が見て取れる。改修時に石垣を積み足したのだろうか。
本丸の北側にアクセスするこの虎口は、高い石垣に囲まれた道を屈曲して登っていく形。一度曲がったところで礎石らしきものがあるが、門があったのだろうか。
この先に北ノ門があるが、その手前右手側に石垣で挟まれた狭い幅の通路と、石段がある。読めなくなっているが奥手口の門?馬洗池の階層からダイレクトにアクセスできる道だ。さっきのごつい石垣の虎口を回り込んだところにある。また、この先は搦手に通じていることもあるので、逃走用の通路であろうか。
北ノ門跡。ここも冠木門風になっている。左右の石垣上には櫓があり、手前に大きな礎石が見える。
6.三ノ門~二之丸
中曲輪から北の門への道は裏口のようなものなので、通常城を訪れる人は大手門から上がって来た先で分岐する道を右へ進まず左に進むことになる。初めに現れるのが三ノ門。どのような形状だったのか全く不明。写真奥に進むと二ノ門になるが、先に二之丸へ。
先に述べたが、松平二代藩主時代まで御殿があったとのことだった。他にも建物があったらしい。まず入ってすぐのところに定番所跡。石垣に沿っていくつかの櫓があり、復元されている。井戸もあったようだ。
太鼓櫓。時を知らせる太鼓が置いてあったとのことだが、馬溜や、大手から進んでくる敵を迎撃できる。石落としもついていた。平屋建て。
次に中櫓。平屋建ての櫓で幕末には「御具足蔵」とも呼ばれていたことから中に武具をしまう倉庫だったと考えられる。作りがちょっとずつ違っているのは意味があるのか、ただのデザインか。
そして南櫓。二階建ての櫓で、用途はよくわかっていない。この櫓の横に三之丸(県庁)へ続く虎口がある。狭くて快適だ。ここで一人暮らししたい。
南口門入って左手の階段を上がると、興雲閣と松江神社が。興雲閣は迎賓館的なものなのかしら。私は入らなかったけど、中も見学できそうだった。詳しくはリンクのHPへw
7.後曲輪、椿谷~西ノ門
またちょっと横道に逸れて後曲輪へ。二ノ門を右に折れると本丸だが、直進すると西ノ門になるので。というわけで亀田橋を渡って城内に入ったところが椿谷になる。内堀沿いに緩い土塁のようなものが続いている。遺構?
三之丸の方に少し進むと、舟着門跡の表示が。あたりは藪化してて雨の後だから踏み込まなかったけど、本当だったら面白い。
なぜなら、この向かい側の道を進むと、西ノ門に続く石段につながるからだ。つまり堀を利用した舟運ルートであり、もしかしたらいざという時の城主の逃げるルートになるかもしれないということ。石段脇も石垣で固められているし、本丸方面にも折れを伴い、数段に渡る石垣が。
そして石段正面にも本丸の高い石垣。ほんとにどこから攻めても本丸にたどりつける気がしないな。
石段を上がり右手にカーブするようにして西ノ門に入っていく。やはり冠木門がつけられている。
本丸から見下ろすとこんな感じ。ロックオン!
8.二ノ門~本丸
また戻って、三ノ門を入りすぐ右手に折れると二ノ門になる。二ノ門跡に二つの礎石が確認できる。
二ノ門を入って左手側は松江神社になり、右手に曲がれば本丸方面になる。直進すると西ノ門。
石段を上がり右手側にちょっとした平場があり、下の登城路を狙える。左手へ曲がれば一ノ門が見えてくる。この先は本丸になる。
本丸に入り、受付所を抜けるとその裏に坤櫓跡。物置になっている…。
すぐ横に多門跡とのこと。多聞櫓のことかしら。
その先、すこし出っ張ったところに鉄砲櫓跡。
西側の石垣も数段にかけて高く高く積まれていて櫓群も立ち並んでいてとても堅固な造り。鉄砲櫓の先、輪郭線を進むと乾櫓跡。
乾櫓は北ノ門と奥手口の門?を守る作りで、向かいの石垣にも何かあったのかもしれない。そしてその先の角角にも櫓があってもおかしくない感じ。
天守の裏を回り込んで祈祷櫓。築城前には塚があり、築城時に石垣が崩落する事故があたとかいう。「二階建てで南側の武具櫓へは長屋造りの多門で続き、北側へは瓦塀が続いていた」とのこと。へー。
というわけで武具櫓跡。休憩所になっておりFREE Wi-Fiがw さすが国宝。
この後ろは一ノ門になる。
やはり一周ぐるっと櫓や石塀で守られていたようである。近世城郭だなあ。
9.天守
いよいよ天守に入る。長かった~。四重五階地下一階付櫓付き複合式望楼型天守。名称も長!現存12天守*3のうちの一つである。下見板張りの黒い天守。石垣はちょっと赤っぽい石が混じってる?
付櫓から中に入るのだが、これだけの厚さの鉄扉。入口からして厳重である。
入るとすぐ右手に階段があり、この下駄箱のある四角い空間、そしてさらに階段を上がり、正面が受付になる。厳重厳重。
ふと横を見ると付櫓一階である。狭間も石落としもあり、入口を守る臨戦態勢な作り。床を見ると鉄板を張り付けてあるのだが、修理?初めて見たw
受付右手に進む。ここの扉も鉄板だった気が。
天守の地階。貯蔵庫として使われていた。俗称穴蔵の間。籠城に備えて井戸があり、瓦の下には塩や米が埋められていた。またここから見つかった祈祷札が築城時期を限定する根拠になったらしい。
昭和の解体工事で取り外された部材の保管場所にもなっている。そして、そのうちの一本の部材の木口に、堀尾氏の家紋分銅紋に「富」の文字が入った刻印があったことが確認された。月山富田城の転用部材と見られる貴重な資料である。
一階に上がると、甲冑や文書などの史料が展示されている。一通り見るものの、柱が気になって仕方がない。寄木造なのかと思いきや、包板というらしい。一本の柱の周囲に板を張って鎹や金輪で留められている。割れ隠しなど不良材の体裁を整えるためのものと考えられている。フランケンシュタインの怪物みたいである。あまり美しくないが、それだけ木材が入手できなかったのだろう。
二階へ。二階にも展示コーナーが。窓や狭間もあるのだが、とても暗い。そして寒い。一層と二層の屋根の間に石落としが作られているので敵から発見されにくい。そして寒い。写真の通り柱の数が多い。松江城には心柱がなく、二階分を貫く通し柱を効果的に配置している。そして寒い。
三階。本丸の模型があった。私の好きな屋根裏空間があったが、屋根自体が大きいので結構なスペース。この階段と隠し部屋と縄、私気になります!
四階には謎すぎる箱便所。えええええ?ここに何かオマル的なものを置いて用を足していたのだろうか。扉ないからどっちみち尻丸出しだけどな。まあ、溜まったものは石落としから落として使えるし一石二鳥だな。
五階最上階。さすがに明るい。天気が良ければ気持ちいいんだろうな。いつかリベンジしてやる。遊覧船も乗りたいし。
窓からは城下が見渡せる。遠く宍道湖や行くはずだった白鹿山や真山らしき山々が見える。ぐぬう。リベンジリベンジ!
10.まとめ
松江城は一般的には江戸時代のお茶の文化とか、平和な時代の華やかなイメージの強い城だと思うのだが、実際訪れてみると、とても戦を意識した城だという印象を受けた。関ヶ原の合戦直後、東軍の立場で西軍の毛利の領地だった地に入り、西国大名の動向を監視する立場であったので考えてみれば当然なのであった。それを踏まえてみれば、月山富田城だったら山奥にすぎるから松江に出てきたということなのかもしれないな。
姫路城と立場が似ているよな。姫路城もめちゃめちゃ戦闘的な造りになっている。ただどちらも城での戦闘はなかったんだよね?
一日中歩き回っても飽きない城だった。狙い通り空いてはいたものの、荒天に苦しめられた遠征となった。次は天候の良い時に来たいものである。
JR松江駅より徒歩25分。バスもあるかな?