つわものどものゆめの跡

城郭に魅せられた女の訪城記録と妄想。

滋賀県教育委員会主催の「戦国の近江」シンポジウムに行ってきました。第2回

 連続シンポジウム、第2回目です。

安土城織田信長~近世近江の幕開け」

  1. 戦国近江の魅力
  2. 安土 信長の城と城下町
  3. VTR 安土城から彦根城
  4. 戦国の覇者織田信長と近江ー中世から近世へー

今回はあまり重複した内容がなかったのでプログラム毎に。

1.戦国近江の魅力

県知事自らの滋賀アピール。の城部分。

県内に1328ヶ所の城跡<全国4位>*1

分布密度では<全国1位>

前回でも触れられたが甲賀地区に最も密集しているようだ。

あとは『現在売り出し中の石田三成は~』という発言に心惹かれた。アイドルかよ。

2.安土 信長の城と城下町

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講師は文化財保護課*2の方で、主に平成元年度から20年度までの発掘調査の結果を話してくださいました。

まずは安土駅前のこの銅像の間違いを話の枕に。普段着で敦盛を舞っている信長様、太刀の佩き方が上下逆という。ありがちなミスである。(^-^;

 羽柴秀吉

下段

  • 渡櫓門→城郭では最古だと報じられてしまったが、秀吉が三法師を入城させるにあたり改変した可能性大

上段

  • 民家で使われるような小さな礎石→2時期の礎石 数寄屋・書院造り
  • 瓦は見つかっていない。板葺きか茅葺。
  • 式台はスペース的に無理。
  • 現在の石垣の内側に埋め戻された石垣が発見された。→郭を広げるため?

つまり、現在見えている郭は信長時代のものではない???

三法師・信雄の入った屋敷か?行幸のための公家屋敷か?

前田利家

名称は昭和につけられた虚構。築城時は勝家の与力だったので城内に屋敷を持てたはずがない。

下段

  • 厩が発見された。

当時の厩とは→ex.彦根城の現存馬屋。板敷の上に馬を飼う。端に畳敷きの部屋がおり、世話をする小姓が詰めている。高級外車。*3また、畳敷きの部屋は密会場所としても使われた。

中段

上段

  • 郭下の謎の礎石列→懸け造りの建物か。

硬くて削りにくい岩盤*4を掘って加工。火を焚いて熱した後に冷水をかけて割る。

 大手道

  • 幅員6m、直線180m。安政の總見寺の石垣を撤去して整備

主郭部

  • 二の丸東溜りの天守炎上の証→赤く焼けた瓦
  • 石垣に沿うように礎石列→懸け造りのバルコニーか?(千田説)
  • 稀有な出土品*5→黄瀬戸のうすばた(立花受。セットの壺は発見されず)。→高貴な人をもてなすときに使われる道具。行幸用か。

城下町見ておきたいスポット

  • 常楽寺
  • 浄厳院(天正7年安土宗論の現場)本堂も本尊も信長様が他所から分捕ってきた。

発掘調査は全体の2割に満たない。ほとんど分かっていない。天主の復元は高所での金箔張りや漆塗り作業の点で難しい。メンテナンスも無理。

《感想》昔は無邪気に天主見てみたいから復元してくれないかと思っていたのだが、一度作ってしまったら簡単に修正もできない。歴史的に正しいものでなければ作っても意味がないと思う。失われたものを妄想する楽しみを覚えてしまった今では、天主の復元にはあまり魅力を感じない。ARで十分かなあ。

 

3.VTR 安土城から彦根城

織田時代→安土・長浜・大溝・坂本と琵琶湖を囲むように築城

豊臣時代→長浜・近江八幡・佐和山・水口岡山城一直線上に築城

 

佐和山城には山頂部のみに石垣、天守を据える 東山道近くの交通の要衝。

水口岡山城にも石垣を使用 甲賀郡中惣が壊れる時期。秀吉の地域支配の象徴。

東側の徳川を強く意識した豊臣の最前線の城⇒当時の徳川が持っていなかった技術

そういったパフォーマンス的な行為は秀吉らしいなあと。

 

彦根城

慶長期[軍事的な城]→山頂に郭を集め、東西に大きな堀切で防護。登り石垣が5本。

中世の土塁・竪堀の仕組みを近世的に作った。

元和期[政治的な城]→山頂の御殿を麓に下ろす。領国支配の拠点。

 

4.戦国の覇者織田信長と近江ー中世から近世へー

 キーワード「権力・城・町の集中」

     「政策基調」

制札→室町幕府の制札と同じ板、同じ様式で

   室町の形式を知っているというポーズ

朱印状→信長時代と秀吉家康時代

    様式は一緒大きさだけ大きくなっている

楽市「越居者」のみに適用される。人を集める仕組み

行く先々で経済流通を発展させる町造り

城外にあった市場を城内に取り込む。一元化→近世城下町の原点

 

 城の構造

室町の「花の御所」構造

主殿と会所と庭園 ハレ” と “ケ”

岐阜城・・・山上に住む。麓の屋敷、庭園との使い分け。

まず麓の屋敷で会い、後で山上に招く。自身で膳を据えるというパフォーマンス。

 

安土城・・・天主という垂直的なシンボル→権力の集中を可視化

行幸の間はどこにあったか?

天正10年城内拝見記のルートから構造を探る

ポイント 伝二の丸 信長廟

  • 千田説のようにバルコニーがあったとしたら、本丸内からでは近すぎて見ることはできない。黒金門まで下がらないと無理。
  • 門の礎石が片側しか見えないことから、秀吉建築時に石段を広げている可能性。
  • 昭和4年の整備では手をつけていない→聖空間のため
  • 郭内に礎石の露出がない。廟を作った時に盛り土をしている?
  • 廟なので掘れない。調べられない。

なんというか秀吉メ・・・という気持ちでいっぱいである。行幸の間は二の丸にあったのではないかという説、大変興味深い。もう太田牛一に聞くのが早いよね。

 

なぜ安土?

京都に近い、琵琶湖の水運etc・・・

近江の石高(72万石*6)→尾張も石高多かったのでは?って思ったけど人数増えてるもんね・・・。

京都に城を造らなかったのは→公家社会に染まりたくない。離れたところから睨みを利かせたい。

これは冗談で仰ってたけど、暑がりだから→地球単位で見ると戦国あたりは寒冷期で今より気温が低かったって聞いたことあったような。

 

信長超人否定の傾向

最近見られる実はたいしたことないじゃん説。確かにどれもオリジナルの政策や戦法ではないかもしれないが、偏見なく優れたものを見抜き、合理的に組み合わせ、即座に実行する行動力は本物だと思う。

既存の権威を利用しながら新しい権威を作ろうとしたものの、身内すら離れて行ってしまいとうとう自滅してしまった、と。

やっぱりタダモノじゃないよね。

 

 

mechamatsuo.hatenablog.jp

 

*1:1位福島(1997)2位広島(1481)3位岩手(1429)へえーといった感じ。

*2:滋賀県には城郭調査だけの部課があるらしい。定員3名。狭き門である。

*3:一豊様の黄金10枚の馬は現在換算で2,312万5千円。

*4:6000年前に6000m級の火山の火砕流、火山灰が冷えて固まった非常に硬い地層。

*5:日本で一点しか見つかっていない

*6:秀吉期光成調べ